独立・開業記

2012年4月11日 (水)

「公務員、辞めたらこうなれる」 その8

「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

その8 仕事と育児のより良い両立に向けて Ⅰ

 

前回は「長男誕生により生じた将来への不安」について書きましたが、今回は、長男が小学校に上がる200841日に向けて石田家が検討した「仕事と子育ての両立策」について書いてみます。

 

保育園は延長保育があるが、学童保育には延長保育がない。また、春休み、夏休み、冬休みの期間は、保育時間が9時~17時となるため、子どもに自宅の鍵の開け閉めをさせなくてはいけません。 

こりゃ、困った!ということで、せめて登下校に夫婦どちらかが家にいられるような選択肢はないか?いろいろと知恵を絞ってみました。

経済的な面から共働きは継続したい。しかし、現状では学童から下校するまでに帰宅することができません。

であれば、自宅と勤務場所が近ければ良いのではないか?

そこで浮かんだのが、地元である大田区役所に配置換えをしてもらうこと。そうすれば通勤時間を1時間短縮することが出来ます。

しかし、特別区(東京23区)、採用は23区全体で行いますが、一度区に配属されると定年するまで区をまたいでの人事異動というのは原則ありません。 

ただし、年に1度、双方の要望(北区から大田区に行きたいという私と大田区から北区に行きたいという誰かの要望)が合致すれば、区をまたいで人事異動が可能となる「区間交流」という制度がありました。

そこで、まずはその制度利用を試みたのです。確か、平成16年、17年のことだったと思います。 

しかし、2年連続して区間交流を申請したのですが、結局、希望は通らずじまい。

事前の感触では「いけそう」だったので、正直、想定外の結論でした。 

この時点で長男は4歳。小学校に上がるまでのタイムリミットはあと2年と迫っていました。

このまま区間交流を申請し続けても良かったのですが、適わないままタイムリミットを迎えてしまったらどうしよう。。。という焦りから次の手段を考え始めました。

 

次に考えたのは、私が正規の職員としてフルタイムで働き、妻がパート・アルバイトとして9時~16時の時間で働くこと。 

これなら、子どもの送り迎えの問題は解消されます。

しかし、公立保育園という恵まれた労働環境を捨てることには抵抗がありました。 

年上の妻の給与は私より高かったので(笑)

もともと高くはない世帯年収が一気に半減とはいかないまでも3分の2にまで落ち込むのは厳しいですよね。

 

そこで、逆に収入の低い私が何かしら変貌を遂げることで、この事態を打開することが出来ないか?ということを考え始めたのです。 

例えば、民間企業に転職

パソコン得意だからIT系の企業なら何とかなるかも。しかし、今より時間がとれなくなるし、そもそも元公務員を雇ってくれるとこなんてあるわけがないと思ったので却下。 

例えば、起業

これは正直、向いてない。向いているなら公務員になってない。そもそもビジネスのイロハもわからない。 

う~ん、何かないかなぁ・・・悶々と打開策を模索しているとき、思い当たったのが「資格取得→独立」の可能性。

そういえば弁護士や公認会計士って資格を活かして独りでメシを食ってるイメージがあるよなぁ。

公務員試験もけっこう難しかったけど合格できたし、何か食えそうな資格を取っておけば、いざとなったら何とかなるかも! 

ということで、安直な理由ではありますが、まずは資格取得の可能性を模索するため、インターネットと本屋で資格に関する調査作業を開始したのでした。 

 

 

長くなってきたので、今日はこの辺で。

 

次回は、数ある資格の中から「中小企業診断士」を選んだ理由と、「中小企業診断士+コーチ」で独立を目指そう!と決めたことについて書いてみようと思います。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介

 

2012年3月28日 (水)

「公務員、辞めたらこうなれる」 その7

 

「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

その7 将来に対する漠然とした不安(子育て編) 

 

前回は「長男誕生」のことについて書きましたが、今回は子どもが産まれたことで生じた将来に対する不安について振り返ってみたいと思います。 

 

息子の誕生は喜ばしいことである一方、将来に対する漠然とした不安が生じたのも事実でした。

その不安とは、「仕事(共働き)と育児の両立が本当に可能なんだろうか?」というもの。

子どもが小学校に上がるまでは保育園という、最悪夜遅く(20時くらいまで)まで子どもを預かってくれる場所があるので、多少仕事が遅くなってもなんとかなります。

実際、自分の仕事の都合と嫁の当番日の調整をしながらでしたが、お迎えは18時半頃になってしまいました。

また、どうしても都合がつかない場合は、嫁の両親にお願いすることで何とかなってきました。 

小さな子どもが7時半~18時半まで11時間保育園にいることの是非はあるでしょうが、大人と一緒にいられるというある種の安心感を得ながら親は働くことが出来ます。

ただし、これが小学校に入ると事態は一転します。 

学童保育は最長18時まで子どもを学校(フレンドリー)や児童館にいさせてくれますが、17時までというところもあります。また、夏休みなども朝は9時~と親の勤務時間を考慮したものになっていません。

保育園の年長さんまでは、いくら遅くなっても(暗くなっても)、親(大人)がお迎えに行って、大人と一緒に自宅に帰ってくることが出来ます。 

しかし、小学校に入ったとたん、登下校は自己解決しなくてはなりません。

仮に17時まで学童にいることができても、そこから自宅への帰り道、自宅に帰ってきてから親が帰ってくるまでは独りということになるわけです。 

一方、役所の勤務体系は8時半~1715分というのが基本。

嫁も変則勤務で、物理的に保育園への送迎ができない日が出てきてしまう。

また私の場合、役所から自宅に帰るまで最短でも1時間510分程度かかっていました。 

ですから、定時で職場を上がっても、自宅に帰ることができるのは、どんなに速くても1820分~30分になってしまう。

「小学校1年生て、まだ小さいよね。その間、子どもを一人にしていて大丈夫なのだろうか・・・。」なんて話を、子どもが産まれた頃から、嫁と話し合っていたのでした。

こんなこともあり、まだ先の話だけど、なんか良い方法を考えよう!ということで、息子が小学校に上がる200841日をXデーとした石田家の作戦が発動されていくのでした。

ということで、次回は息子が小学校に上がる200841日に向けて、どんな選択肢があり得るか?実際に検討・実施したことについて書いてみようと思います。

 

なお、余談ですが嫁が専業主婦になるという選択肢はありませんでした。(今もない)

当時の私の月収(嫁も)が手取りで20万ちょいで、一馬力では厳しい状況だったということもありますが、私自身「働いている女性が好き」だから、というのが理由です。

 

た、定時退社しやすい、また「子どものお迎えがあるので」という理由に理解のある役所にいた石田家でさえ、「子育てと仕事の両立って大変だなぁ」と思っていましたので、民間企業で共働きを続けている家庭の苦労は図りしれないんだろうな、と思います。

そういう意味でも、自宅で仕事ができるフリーランスの環境て、子育てと仕事の両立を志向する人には最適ですよね。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介 

2012年3月22日 (木)

「公務員、辞めたらこうなれる」 その6

 

「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

その6 長男誕生

 

前回は「結婚」のことについて書きましたが、今回は「長男誕生」、つまり父親になった時のことを振り返ってみたいと思います。

長男が生まれたのは、平成14121日。約10年前、26歳の時です。

嫁にとっても初めてのお産ということもあり、立ち会い出産を希望しました。

第一子は予定日よりも遅れるという話はよく聞くところですが、案の定、長男の時も予定日を1週間過ぎても生まれる兆候がありませんでした。

そうこうしているうちに破水してしまい、急遽病院にいくことになったわけですが、それでもお産が始まらない。

仕方がないので、誘発剤を使ってお産を促そうということになったのですが、それでも全く出てこない。

結局、破水から4日後にようやく産まれてきたのですが、その間、嫁は陣痛の痛みに耐え、私はひたすら嫁の腰をさすり続ける、時より赤ちゃんの心音が弱まってきたりで、どうしようもない不安と眠気、「なんでうちだけ?」という苛立ちで、今思い出しても地獄のような4日間だったことを覚えています。

同部屋の方が次々と出産していく中で、取り残されていく気分。嫁も辛かったと思います。 

とにかく「無事に産まれてきてくれ~」とひたすら祈っていました。

だから、産まれてきたときは 

「無事に産まれてきてくれて(産んでくれて)、ありがとう!!!」

それ以外の言葉は見つかりませんでした。 

こんな経緯もあるので、長男に対する思い入れが非常に強いんだと想います。

 

なお、病院は最新の医療設備が備わっており、自宅からも徒歩圏内にあった国立の某医療センターにしたのですが、そこにいた助産師さんたちのホスピタリティの無いこと無いこと。 

「誘発剤を使っているのに、なぜ生まれてこないのだろうか?」「おなかの赤ちゃんは大丈夫なのだろうか?」「母胎に影響はないのだろうか?」いろいろな不安が渦巻く中、声をかけても、素っ気ない態度をとるは、うっとうしい!と分かるような態度をとるはで、「もう二度とこの病院では産まない!」と確信したことを覚えています。

ただ、それだけ助産師さんたちの労働環境が悪かったのかなぁという気がしなくもないのですが、患者の不安を取り除けないような助産師さんじゃ。。。とも思います。 

なので、娘の出産は「安心して産める」と評判だった病院を選んだのですが、嫁曰く「一人目もここにすれば良かった」とのことでした。

ちなみに病院は、中目黒にある育良クリニック。料金は高いけど精神的な満足度はかなり高かったようです。 

 

さて、息子が産まれ、自分が父親になり、とにかく心がけたのは「積極的に関わる」ということでした。 

自分の記憶の中には父親と遊んだという記憶があまりありません。(実際はあったのかもしれないけど、ほとんど覚えてない。。。)

なので、自分としては「いつも一緒にいて、遊んでくれる、勉強を教えてくれる、話ができる」そんな父親になりたいと思っていました。 

だから、夜泣き対応以外は全てのことをやったと思います。

(一度寝ると何をされても朝まで絶対起きないんです。。。夜泣きにも気づかないので)

ミルク、お風呂はもちろん、離乳食づくりから、散歩・・・、大きくなってからは、それに加えて土手でのサッカー&野球、ヒップホップやスイミングといった習い事への随行と時間の許す限り、嫁任せにせず、自分が関わっていったつもりです。(最近は、そうでもないか・・・) 

 

その一方で、「かっこいい!父親」でいたいとも思っていました。 

スポーツでかっこいい!仕事でかっこいい!家事でもかっこいい!少なくとも「友達に紹介するのヤダなぁ」とだけは思われないようにしなくては!と思っていました。

また、単に遊び相手になってあげるだけでなく、自分自身が背中を見せられる、誇れるような姿勢を見せなくては!という思いもありました。 

 

振り返ってみると、なぜ独立をしたのか?の理由の1つがここにあったような気がします。 

スポーツでかっこいい!家事でかっこいい!というのは、息子(娘も)が産まれてからも一貫して継続してきたつもりです。

ただし、今でこそ「仕事でかっこいい!(イキイキとしてる!の方が適切か)」と胸を張ることが出来ますし、息子からも「パパって大人の人に勉強教えたりしてるんでしょ?すごいね!」と言ってもられるようになりましたが、役所に勤めている頃は自信をもって「仕事でかっこいい!」と胸を張ることはおろか、子どもに自分の仕事の話(自分が公務員であるという話をすること)をすることが嫌で嫌でたまりませんでした。 

もちろん、役所の仕事を否定するつもりは毛頭ありません。必要な仕事ですし、誇れる仕事です。

ただ、自分の中では「役所の仕事をしている自分=かっこいい!(イキイキと仕事してる!)」が成立しなかったのです。

この後、徐々にこの辺のフラストレーションが溜まっていく訳なのですが、この辺の具体的な話は、また別の機会に書いてみたいと思います。 

 

こうやって書いてみると、子どもにとって「かっこいいパパでいたい!」という想いが強いみたいですね。 

 

次回は、子どもが産まれたことで生じた不安について書いてみたいと思います。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介 

2012年3月 3日 (土)

「公務員、辞めたらこうなれる」 その5

 「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

 その5 結婚しました!

 

前回は「念願の公務員になった!」時のことについて書きましたが、今回は人生の重要テーマである「家族との時間を確保する」「仕事一辺倒じゃない、子どもたちとも関わることができる父親になる!」ことの大前提となる「結婚」について振り返ってみたいと思います。

 

現在、長男(10歳)、長女(5歳)の父親であり、嫁(3●歳)の夫として家族仲良く過ごしている訳ですが、結婚したのは今から約11年前。24歳のときで、役所に入って3年目の冬でした。

 晩婚化が進んでいる中、比較的若くしての結婚ということになりますね。同期の中でも早かった方だったと思います。

 結婚のきかっけやなれそめの詳細は恥ずかしいので書きませんが、嫁と知り合ったのは役所の新人研修の時でした。確か、同じクラスで席が前後、同じ班だったと思います。

 当時、新人研修は23区合同で行っており、私は北区の事務職として、嫁は他区の保育士として研修に参加していました。

 合同の新人研修は4月に1週間、9月に1週間と実施をしており、その間も飲み会をやったり、研修後にはスキーに行ったりと結構交流がありました。

 そんな中で仲良くなって、付き合うようになって、結婚するに至った訳です。

 ちなみに、結婚当時は顔、髪型、背格好、着ている物が似通っており、夫婦というより「姉弟ぽい」とよく言われました。

  

 なお、自分に結婚願望が強かったか?というと、そんなでもなかったと思いますが、若いパパには憧れてました。できたら親子でスキーをしたりサッカーをしたいなぁと思っていたので。

 嫁の方はどうたったんでしょう?自分より2歳年上だから、ちょっと焦ってたというのはあったのかも知れません。分かりませんが。

 ただ、お互いの家が結構遠くて、毎回家まで送っていくのがめんどくさいなぁ思ってたし、一緒に住んじゃえば楽なのになぁ、でも同棲は嫁の両親がOKしないだろうしなぁと思いながら、じゃ結婚しちゃおっか、なんてノリだったと思います。

 結婚後は、嫁の実家近くに引っ越したので、通勤時間は長くなりましたが、比較的やりたいことは自由にやらせてくれていたので、結婚しても生活は独身時代とそう変わりませんでした。

 本格的にモーグル競技にのめり込んでいる時期でもあり、11月~GW明けまでは雪山に、オフシーズンはザウスやSNOVAといった屋内スキー場に、夏場はウォータージャンプにと、本気で全日本選手権出場を目指してトレーニングに励んでいましたし、仕事以外の時間は全てモーグルに捧げていました。

 ですので、休みの日になれば嫁と一緒に車に布団を積んで各地のスキー場と隣接する温泉を巡る車泊の旅に明けくれた日々でした。

 今思えば、よく夫の趣味に付き合ってくれたなぁと思います。感謝ですね。

 

結婚してから、長男の妊娠が分かるまでの1年半は、新婚生活をめいっぱい楽しんでいました。

 もちろん独立なんてことは考えることもありませんでしたし、このまま楽しい人生が続くと良いなぁと思っていました。

 

最初に将来に対する漠然とした不安が頭をよぎったのは、息子が生まれ、嫁の育休が明け職場復帰した頃でした。

 独立するという発想には至りませんでしたが、このままじゃ仕事と子育ての両立は難しいなぁという思いが芽生え始めてきたのでした。

 次回は、その長男誕生の頃について書いてみたいと思います。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介

2012年3月 1日 (木)

「公務員、辞めたらこうなれる」 その4

 

「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

その4 念願の公務員になった! 

 

 

前回は「公務員の試験勉強」について書きましたが、今回は晴れて公務員になったときのことを振り返ってみたいと思います。

 

 

北区役所に入区したのが平成9年4月1日。確か同期は全員で60名ほどいたと記憶しています。

のうち、私のような事務職は10名程度で、40名ほどが保育士さん、その他土木職、電気職、栄養士さんといった専門職の方々が数名程度。

また、新卒は比較的少なく、民間からの再就職組が半分ほどいたと思います。 

 

最初に配属されたのは教育委員会で、「学校管理係」という区立小学校、中学校、幼稚園の管理業務(予算や契約に関わる事務)を担う課に配属されました。

その中で担当していたのが区立幼稚園に関する業務。

遊具を買ったり、清掃業者を手配したり、入園募集のポスターを作ったりといった事務作業から、教育委員会と園長・教頭先生との連絡係を担ったり、少子化に伴う休園や閉園の手続を進めたり(これが大変だった!)と、役所の事務仕事の基本とされる事務作業のほとんどを体験させてもらいました。これを3年間担当することとなります。

また、平均年齢が高いといわれる役所の中で、係長と次席の方以外、全員22歳~30歳という若手が多い極めて珍しい職場でした。 

そのときの新人教育係としてペアを組んでもらった先輩(29歳、伸長170cmの「宝塚」と呼ばれていた女性)がとても仕事の出来る方で、その方に社会人としての基本的な心構えや役所の仕事のイロハを教えてもらいました。

この先輩の影響は大きかったですね。今でも、この頃受けた指導や育成教育が、今の自分の仕事に対するスタンスの基礎となっています。 

仕事はスピーディで正確だし、礼儀正しい。言い訳もしないし、おかしいことは「おかしい!」と言う。

でも、嫌味がなく、完璧!と思わせる中でも、たまにおっちょこちょいをやらかす愛嬌もあるなど、とにかく周囲からの信頼がとても厚い人でした。この人のことを悪く言う人を後にも先にも聞いたことがありません。 

今でも、最初の先輩がこの人で本当に良かった!と思っていますし、感謝の念がたえません。

 

最初の職場でどの先輩につくか?どの上司につくか?というのは、人材育成の上でも極めて重要ですよね。 

同じ同期でも、育成に全く関心がなかったり、いわゆる「出来ない人」のもとで仕事を進めざるを得ない環境に身を置いていた人もいます。

残念ながら、そういう同期は、今では「問題児」と後ろ指を指されるようになってしまっていたりします。。。本当に残念ですね。 

 

そんな恵まれた環境の中で仕事をさせてもらっていたのですが、当時の感想は「役所の仕事って以外と面白い!」でした。 

特に、PCを使っていかに効率的に事務を進めていくかというのが全庁的な課題となっていて、とにかく紙で管理していたものを、いかにデータで管理するかを進めていた時期でした。

ワードやエクセルはもちろん、アクセスをも使いながら、どうにかこうにかこの煩雑な書類と事務処理を何とかせねばということで、その先輩と二人三脚となって書類のひな形を作ったり、帳簿の書式を作ったり、名簿のデータベース化を図ったりとルーティンワークをこなしながらも「システム作り」という新しいことにチャレンジができました。 

とにかく「何かを覚える楽しさ」「知識やスキルが身につくうれしさ」を実感できた入区1年~3年だったと思います。

この頃からパソコンスキル(プログラム系)への関心が高まっていくのですが、コツコツ1つのことを極めていきたいという欲求はこの頃からあったのかもしれません。 

 

とはいえ、仕事は多忙を極めるといったこともなく、たまの残業はあったもののほとんど定時には帰ることができました。

プライベートでは、役所のサッカー部に入り、独身寮に入ったということもあり、公私ともに役所の人間と楽しく過ごすことができました。 

不景気ながらも、そこそこのお給料ももらえましたし、さすがに1年目は有休をとる勇気はありませんでしたが、仕事もおもしろい、サッカーやスキーにも全力投球できる時間があるといった、公私ともに充実した理想の人生を送ることができていました。

もちろん、この頃は「一生役所で働く!」と思っていましたし、「独立」なんて言葉は頭の片隅にも浮かんできませんでした。 

 

書いていて思ったのですが、仕事に対して「新しい知識やスキルを身に付けること」「目標とする先輩が身近にいること」に喜びを感じていたようですね。

独立を考えたきっかけとして、「自分の成長を実感できなくなった」「目標となる人がいない(何様でしょうね)」というのがあったのですが、過去にこういった充足感を得ていたことが要因だっとのではないかと改めて気づきました。 

振り返ってみるものですね。

 

 

 

さて次回は、独立するに至った大きなファクターの1つ。嫁との結婚について振り返ってみたいと思います。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介

 

2012年2月24日 (金)

公務員、辞めたらこうなれる その3

こんばんは。

役人コーチこと中小企業診断士の石田恵介です。

 

前回は、「公務員になる!」と決めたときのことを書きましたが、今回は公務員試験の受験勉強について振り返ってみます。

「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

 

その3 公務員試験の勉強

 

 

大学は附属校だったためエスカレーターで進学することが出来ました。

学部は法学部政治学科。 

別に法律に興味があった訳でもありませんし、政治に興味があった訳でもありません。

 

単に当時、「一番就職率が高い」とか「公務員になる人が多い」と言われていたから、という理由だけでした。(実際、大学時代の仲が良かった友人7人グループのうち自分を含め5人が公務員になりました。)

合理的かつ合目的的な行動傾向は、この頃から変わってないのかもしれません。

また、大学1年の夏から独り暮らしを始めました。

実家から通えないことはなかったのですが、母親の「独りで生活できる能力を身に付けなさい」という教育方針?だったのか、家を出ることになりました。

家賃は払ってもらっていましたが、生活費はバイトで稼ぐことに。

月々のバイト収入は10万円以上あったと記憶しています。当時の大学生としては稼いでいた方だったと思います。

バイトはピザの宅配、居酒屋、カフェなど飲食店の厨房とホールを中心にやりました。今でも家の食事はほとんど自分が作っていますが、この頃の厨房経験が大いに役に立っています。

 

で、公務員試験ですが、1次試験が4年生のゴールデンウィーク明け。

民間就職は考えていなかったし、就職浪人はしたくなかったので2年生の春頃から勉強を始めました。

予備校に通う人も多かったようですが、高校受験も独学で第一志望に合格できたのと集団で勉強するのが苦手ということもあり、独学で受験することにしました。

ですので、大学2年生の頃からは、一部の出席必須のものを除き、授業にはほとんど出ることはなく、ひたすら大学の図書館で試験勉強に励んでいました。

平日の昼間は大学の図書館で試験勉強。夕方から夜にかけてはバイト。土曜日はデート。日曜日はサッカー。そんな感じの大学生活を送っていたような気がします。

たくさん勉強(試験の)したし、たくさんバイトしたし、たくさん遊んだ大学生活でした。

思い起こせば、人生で二番目に楽しかった時期かもしれません。もちろん、一番は「今」ですが。

  

また、一口に公務員といっても、選択肢は様々です。

調べてみるといろいろあるんですよね。

地方公務員・国家公務員という切り口以外にも、警察や消防で事務をやるっていう選択肢もあったし、国税専門官、裁判所事務官、国会の事務局職員等々。

また、別に自分が住んでいる地域じゃなくても受験できるし、3~4つは受験できたように記憶しています。

自分は「転勤しない」という前提があったので、国家公務員は選択肢から外しました。

また、東京か横浜で生活したいという希望もあったので、生まれ育った23区と実家のある横浜市の2つを選択しました。

また、面接で志望動機を聞かれたときに「生まれ育った大田区」「現在住んでいる北区」「実家のある横浜市」であるため、「住民でありかつ職員という立場で地域のために働きたい」というロジックが通用するのではという思惑もありました。

事実、内定をいただいた北区での面接は「現住民」でもあったため、とってもスムーズでした。

 

なお、試験勉強は結構大変でした。

中小企業診断士も科目数が広いですが、公務員試験もそれに匹敵するかそれ以上の範囲がありましたので。

ただ、択一式でしたので、覚えてしまえば難易度はそれほど高くなかったような気がします。

23区は、受験が終わった瞬間に「受かる」と思いました。「分からない」という問題がほとんどなかったので、おそらく100点に近かったんじゃないかと思います。

論文も阪神・淡路大震災があった年だったので、「防災」に関するテーマが出ると思い準備をして臨んだ結果、どんぴしゃでした。

横浜市は、受けた瞬間「ダメだ」と思いました。市政に関する問題が相当数出題され、全く分かりませんでしたので。

結果、予想通り、23区は2次面接も無事とおり、北区から内定をいただき、横浜市は1次試験であえなく敗退という結果となりました。

 

こうして、無事、公務員となり「転勤しない職業に就く」という1つの目的は果たしたのでした。

 

次回以降は、役所に入ってからのこと(仕事、結婚、子育て、モーグルなど独立を意識する前まで)について、数回に分けて振り返ってみたいと思います。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介

2012年2月22日 (水)

公務員、辞めたらこうなれる その2

こんばんは。

役人コーチこと中小企業診断士の石田恵介です。

前回は、「公務員を目指したきっかけ」について書きましたが、今回は「公務員になる!」と決めたときのことを振り返ってみます。

「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

 その2 公務員になる!

何となく「公務員ていいな」と思ったのが高校1年生の時で、「よし、将来公務員になるぞ!」と決めたのは確か高校2年生の時だったと記憶しています。

折しも、父親の長岡での単身赴任が終わり、東京に戻って来られるという年でした。

その父親とは一緒に住むものだと思っていたのですが、母親がそれを拒否。

「とうとうきたか!」と思いましたね。

まぁ、幼い時分から、こうなるだろうなとは予想していたので、それほどショックはありませんでしたし、両親が一緒にいるときの冷たい空気の中で生活することを考えれば、別居はベターな選択だったのかなぁとも思います。

でも、寂しいことではありますよね。

思い起こせば、父親と母親が仲良くしている場面というのを自分は一度も見たことがありませんでした。

また、自分が起きているときに父親の姿を見ることも希でした。

そのため、子ども心に「父親と母親は仲が悪いもの」「父親は家にいないもの」という思いがすり込まれていたようです。

だから、友人の家でご両親が仲良くしている姿に最初はとても違和感を覚えましたし、一番仲の良かった友人がいつも父親とスキーに行ったり、キャンプに行ったり、子ども会の行事に一緒に参加している姿がとても羨ましくもありました。

「仲良し家族コンプレックス」だったのかもしれません。

 

そんな環境の中で育ってきた中、高校生という敏感な年頃においての両親の別居を経験。

原因について、当時の自分は「父親が仕事ばかりして家のことを何もしないからだ」という想いが強かったように思います。(決して、父親が嫌いだった訳ではありません。家族のために仕事を頑張っているという思いは常に持っていました。)

そんな経験もあって、「自分は将来、仕事一辺倒じゃなく、子どもたちとも関わることが出来る父親になりたい!」という想いを強く持つようになりました。

他方、高校2年生にもなると、大学進学のことを意識するようになります。附属校のため、具体的にはどの学部にいきたいか?でしたが。

と同時に、将来どんな仕事に就きたいか?ということにも関心が向かいます。

両親は不仲でしたが、母子、父子の仲は良好でしたので、将来どんな仕事に就きたいか?という話はよく母親としていました。

「転勤がない。家族の時間を大事にできる。なら公務員でしょ。」という母親の意見にも影響され、さらに「自分の趣味の時間を確保できる」「休みが取りやすい」「高給取りにはなれないが、取りっぱぐれもない」「福利厚生充実」「クビにならない」という甘い言葉に惹かれ、「よし!将来は公務員になる!」という思いを強くしたのでした。

で、「公務員になるには法学部」「法学部に行くには、成績でトップ10%以内に入らないといけない」という当時の経験則があったため、学校のテストだけは気合いを入れて取り組み、なんとか法学部への進学を果たしたのでした。

 

しかし、書いていて思ったのですが、仕事に対しては、極めてネガティブな思いしか持っていなかったようですね。。。

今のワークライフバランス志向は、この頃に確立されたように思います。

  

次回は、大学時代を振り返ってみたいと思います。

バイトとスキーとサッカーと公務員試験の勉強に明けくれた4年間でした。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介

2012年2月19日 (日)

「公務員、辞めたらこうなれる」 役人コーチの独立開業記録 その1

こんばんは。

役人コーチこと中小企業診断士の石田恵介です。

 

区役所を退職し、独立・開業をしてから3年半が経過しました。

そろそろ「なぜ、公務員を辞めたのか?」「なぜ、独立しようと思ったのか?」「その決断は、今の自分に何をもたらしているか?」等々について、総括しても良いかなぁと思いました。

公務員を目指したきっかけから、現在に至るまでの環境や心境などを思い出しながら、不定期ですが綴ってみようと思います。

タイトルは、昔読んだ「公務員辞めたらどうする?」という書籍があったので、それをもじりました。

 

「公務員、辞めたらこうなれる」 ~役人コーチの独立開業記録~

その1 公務員を目指したきっかけ

 

私は、平成9年の4月に東京都北区役所に入区してから平成20年3月の退職まで、11年間、地方公務員としての職業人生を歩んできました。

「公務員になろう!」と思ったのは比較的早く、バブル全盛だった高校生の頃だったと思います。

なぜ「公務員になろう!」と思ったのかというと「転勤しない職業に就きたかったから」です。

よくある「休みが多い」「クビにならない」「趣味の時間がとれる」といった理由は、もう少し後になって湧いてきたと記憶しています。

 

中学時代、父の転勤で新潟県長岡市にいた石田家。

長岡にいる期間は4年と決まっており、長岡の高校に進学するという選択肢がなかったため「高校受験は東京で」ということが中学入学の時から決まっていました。

母親の中でも、また東京に戻って来るという心づもりがあったようで、その時は私が小学生の時まで住んでいた公団住宅の近くにマンションでも買おうとしていたようです。

知り合いもたくさんいましたから。

しかし、長岡に行っている3年間で地価は倍以上に高騰。(バブルですね。)

仕方なく、母方の実家の近くである横浜(戸塚)に引っ越すことになりました。

初めての土地。周りに友達などいるわけもありません。

しかも高校は川崎にある私立高校に進学したため、同級生の家も埼玉、東京、神奈川と各地に点在していました。

当時、「ジモピー(地元ピープル)」の話題(男子校だったので特に女子の話題)で友達同士が盛り上がる中、自分だけは地元と言える場所がなく話に入っていかれない寂しさ、「ごめん、今日、地元と奴らと遊ぶから」と言われた時の孤独感、すごく嫌だったのを覚えています。

「引越(転勤)ってやだね」と愚痴った際に、母親から出てきた言葉が、「まぁ、サラリーマンだから仕方がないわね。転勤しない職業なんて公務員くらいしかないわよ。」

そっか、公務員は転勤しなくてもいいんだ。。。(転勤する公務員もいるんですがね。このときは知りませんでした)

何となくですが、公務員ていいなと思ったのを覚えています。

それまで将来については「電車の車掌」「サッカー選手」「スキーのインストラクター」「水泳選手」など、子どもが卒業文集に書く「将来の夢」の域を出ませんでしたが、初めて具体的な職業を意識した瞬間だったと思います。

 

次回は、「公務員いいな」から「絶対、公務員になる!」と思った時のことを振り返ってみたいと思います。

 

K&Rコーチング・コンサルティング 中小企業診断士 石田恵介

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